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夢を描いた理由

―オープニングの夢のシーンの長さに驚きました。長い夢から覚めるまで、主人公のココネが出てこない。

 夢の世界だからボヤンとしたものでもいいんですけど、お父さんの世代なら必ず見て来たんじゃないかというモノをパッチワークして娘に話していたはずなので、その辺の設定を事細かく作った結果です。あれはお父さんの半生でもあるので、ココネの人生より厚みがある。お父さんとお母さんの半生を、物語とすり替えて話していたということなので、どうしても長くなってしまった。
 今回の作品は、脚本で言うと、本当は2本分くらいあるんです。夢だから適当でもいいんだけど、一応そこに筋が通っていないといけない。唐突にロボットが出るのかと思われるでしょうけど、あれが日本車のオマージュだったり、日本企業への暗喩だったり。必要以上に過酷な労働環境だとか、便利ですごい機械なのにあんなに人数がいないと動かなかったり。そういうことを全部設定として組み上げる必要がありました。

―夢の中の「ハートランド」の世界観は、まさにおじいさん世代のものですよね。

 ハートランドは「志島*」だし、イーストポリスは東京の言い換え。80年代の日本で24時間働いて「幸せになる」ために自動車を作っていたはずなのに、なんのために働いているのかというジレンマに陥っている。あれは、ココネの父モモタローが初めて上京して就職した時の記憶なんです。それを聞かされたココネが、こんな感じかなと想像しているのが、あの夢の世界ですね。話していたお父さんの頭の中では、東京だったし、自分だし、母親だった。それをココネは頭の中でああいうビジョンとして見ていたというわけです。

*現実世界で登場する自動車会社の名前

―お話を聞いていると、今すぐ映画をもう一度観たくなりますね。「夢」のモチーフは、名だたる映画監督が描いてきた、とてもチャレンジングなテーマですが。

 振り返ってみると、このモチーフがなくても成立しただろうという思いと、4年前の時点ではギリギリまだ夢というファンタジーモチーフがないと企画が成立しなかっただろうなという思いと両方あります。海外では、日本のアニメーションというのは基本的にすべてSF作品もしくはファンタジーという解釈なんですね。日本でもその傾向は未だに強いのですが、昨年大ヒットした『聲の形』は、ファンタジー要素ゼロのアニメ。ついに実写でやっていたはずの話をアニメでやるようになったんだと…。日本では多分、カリカチュアされたキャラクターの方が本質を語りやすいんです。以前はそれを洋画に求めていたのが、アニメに変わったんだと思うんです。
 
 日本人はなぜか、「映画にだけは本当が映っているはず」と無意識に捉えていたんです。舞台やパロディ、コメディなどとは違って、映画の中には本当が映っていないとダメだったんです。だから俳優がいくらがんばっても、二十歳過ぎた人が学生服着て高校生を演じているがために、嘘が映っちゃっていたんですね。でもアニメには最初から嘘であるという前提があるから、本質を見ることができやすいんだと思うんです。今、アニメの映画がヒットしている理由のひとつはそこで、だからファンタジー要素がいらなくなってきているんです、徐々に。
でも(構想を考えだした)4年前の時点ではファンタジーがまだ企画を通す上で必要で、アニメである理由が求められていたんです。そういう時に「夢」というモチーフに挑戦してみるかと。二重世界というか、夢は漠としているけど、本人の中では現実と切り結んでいるところがあるはずだと。

エンディングに込めた想い

―これまで監督の作品は、問題を残したまま「次に続くよ」と終わっていることがありますね。でも、『ひるね姫』では、解決や結末が描かれていますね。

 結論を出そうと思うんだけど出ない時もあるんですよ。やっぱり物語っていきものなので。描いて行くうちに結論に導いてくれる場合もある。今回なんとなく導いてくれたのが、物質的な解決方法ではなく、気分のところ。3人が縁側で笑いながらスイカを食べられる状況ができれば、鬼*に勝てるんじゃないかなという。というのが自分の中でも自然に出てきた。

*夢の中でイーストポリスを攻撃する、社会のコンフリクトや人間の悪意の象徴的存在

―エンドロールが感動的でした。お母さんが作成したプログラムが物語の鍵になっていて、ここでようやく母イクミの物語が描かれていますね。

 あれだけ欲しがられるプログラムということは、成功していたプログラムなんですよね。よくできた科学技術は魔法と見分けがつかない。そもそもプログラムとはなんだ、という人から見ればそれは魔法の呪文みたいなモノでしょう。
 お母さんのくだりを描いた時に思ったのは、女親は男親と違って、もし自分が死んでしまうとわかった時、「私の功績を娘に伝えて」とは言わないだろうと。ココネが生きていく上で、女性じゃなければ教えられない「生き方を伝えて」と言ったはずなんですよ。だからプログラムはココネに渡していない。夢の中で語られるのはお母さんの生き方なんです。するとね、魔法*というのはお母さんの愛情だったということだと思ったんです、結果的に。描いているうちに立ち上がってきたのは、一切出てこないお母さんこそ主役だということ。そしてココネこそが、彼女の作った最高傑作なんだと。そのことを、ココネはきっといつか後日談として知るんじゃないかな、ということであのエンドロールを作りました。

*映画の夢の中では、行き詰った科学技術のソリューション=魔法として、ITが登場する。

ポスター2

人類に自己破壊は必要か

―過去作品のことをお聞きします。『ひるね姫』以前は、世界や人類をやり直すために破壊しようとする方法論を、何度か取り上げていますね。やり直しがきかないほどひどい状況だと?

確かに終末思想がないわけではない、もう壊した方がいいと思う僕もいるし、それを止めるのも僕という両極があります。壊さずにやり直す方法を、ずっと模索しているんです。
『009』を作った時に、原作の石ノ森章太郎先生も悩んだのだろうと切実に感じました。お弟子さんだった永井豪先生や、幻魔大戦を書かれた平井和正先生は、「滅ぼしてしまえばいい」とハルマゲドンを実際に描いた人たちですね。でも衝撃的ではあっても結論に至ってはいない。石ノ森先生は、「俺だって焼け野原にしてしまいたいんだ、でもヒーローがそれをやってはいけないんだ」ということを、おそらくずっと悩んでいたのではないかと、強く感じました…。時代が何周もしてヒーローのありようも変わっていく中で、普遍的なヒーローを守り続けようとしたんじゃないかなと思うんです。で、僕もそっち側だなと…。
石ノ森先生は、009だけは真のヒーローとして貫き通した。答えを求めて同じ輪っかを何周も繰り返してる。その葛藤は、『東のエデン』あたりと同じ考え方だという気がしました。
 
ひとりの作家が同じ哲学でヒーローを描いていくと、時代とともに変わっていくはずなんです。逆に言うと、見ている人からは作り手が変わっていくように見えている。だから、「ずっと変わらないね、あの人は」と思われている人は、実はものすごく変わっていってるんだと思います。『009』はあまりにも自分の思想とピッタリで、化学変化が起きない苦しさというのがありました。

CMクリエイターたちへ

―クラフターという会社を作られて、CMも何本か手掛けていますね。広告に対する想いを聞かせてください。

 僕にとって、クリエイターとしてのメリットはあまりないのかもしれません。表現に枷がつく可能性がありますから。ただ、違う才能同士や、同じ映像の仕事でも制作資金を集める水源が違っているというところをうまくつなげたいという気持ちがありました。あっちの水がこっちに、こっちの水があっちに流れ込むといいなと。橋渡しという感覚なんです。交互に才能が行き来する機会を作ろうという。

―僕らはそのガチガチの足枷の中で広告を考えているのですが、今の広告についてはどう思いますか。

 足枷があるからこそ、光るものもあるんじゃないですか。80~90年代には大好きなCM作品がいっぱいありましたよね。サントリーのランボオ、ガウディとかSONYのウォークマン、みなさんが覚えていないようなクルマやタイヤのCMとかね。15秒30秒の中に“映画を見た瞬間”というのがたくさんあって、同じ映像を志す者として、羨望の眼差しで見ていた。高校生の時なんか、CMを録画したりしていましたから。
 映画には絶対必要なもののひとつに、「意図的な欠落」があります。映画にはすべてが入っているので、最後の一筆で欠落を加えないと映画が映画たりえない。30秒だから、尺がないから映画たりえているという。それは先天的な欠落であって本質的な欠落ではないんだけど、だからこそ羨ましくもあったんですね。とくに当時の邦画は全然ダメだったから。なんで30秒で描けるのに、2時間あると描けないんだよと。尺が短いというルールを変えられないのであれば、そのルールをどう最大限いかすかというところに、また広告が戻ってほしいなとは思って見ているんですけど。
 
 リドリー・スコットに撮らせたCM、あれはアップル*でしたっけ。絶対映画になれないからこそ、映画に近づけたと思うんですよね。アニメも似ていて、偽物が本物になろうとするから、行間に本質が映る。アウトラインのある絵なので、永遠に記号なんです。本物の人間じゃない。三谷幸喜さんの作品なんかは、おかしな時間が流れて「明らかにこれはリアルではない」と提示することで映画たりえていると思う。三谷さん自身は、どうしても映画にならない、舞台になっちゃうと悩んでいるようですが。僕もそれはずっと苦しんで、映画の正体というものを生涯探し求めるんだろうなと思います。
CMは映画になれないからこそ、映画たりえる可能性がある。目指すのが映画でなくてもいいと思いますけど。制約があるからこそ、その中に別のストーリーを見つけることができればまた新しいCMの時代が来るのかなと。

*Apple Computer『1984』(1984年)のこと

インタビュアー:丸山 顕
執筆協力:矢島 史
photo:鈴木 優太

神山健治

(プロフィール)1966年生れ。アニメーション監督、脚本家、演出家。株式会社クラフター代表取締役共同CEO。
背景美術スタッフとしてキャリアをスタート。『攻殻機動隊 S.A.C.』で監督とシリーズ構成を兼任した。続いて『精霊の守り人』でも再び監督とシリーズ構成を兼任。オリジナルTV シリーズ『東のエデン』では原作も務め、『009 RE:CYBORG』においては初のフル3D 劇場作品を監督した。3月18日公開の『ひるね姫~知らないワタシの物語~』では、初の劇場版オリジナルストーリーでの原作・脚本・監督を務めた。