アイデアではなくディレクション
高草木● 僕はどちらかというと、朝広、毎広あるいは競合プレゼン的な目立つアイデアで、賞がもらえないかと考えていました。でも、それ以前に本当は地球全体の公共の問題に対して、一市民としてどういう「考え」を持っているかが問われるはずです。ところが、広告マシーンのように、課題が出た途端に表現方法を考えているわけです。
出題自体が間違っているかもしれないとか、本当はいろいろな「考え」があるはずなのです。それは普段の生活からずっと続くもので、突然、ヨーロッパに行って、世界市民としての自覚が芽生えるはずがありません。マス媒体で表現する者として責任を持って仕事もするけれども、個人としてどういう意見を持っているのかという自覚がないと、問題の深刻さには、結果的に届かないのではという感じがしました。
山上● とくに1位の作品は、なぜ1位なのか全然わからなかった。現場には、膨大なフォトストックがあったのですが、僕らはあえて写真を使うのはやめようと考えました。ところが、こういう写真だけはないと思っていた写真を使っているわけです。 悩んだ末に、審査委員長を捜して話を聞きました。そのあとで、あわててもう一度見に行って、「いい広告じゃん」と(笑)。オリエンは、子供の労働はよくないことだけど、法律的に規制してしまうと、もっと危ないアンダーグランドの仕事に走ってしまうことがある。だから、単純に法律で規制してしまうことはOKとも言えない。すごく複雑な問題だというものでした。
それに対し、ビジュアルは、オフィス街にサラリーマンが仁王立ちしていて、少年が靴を磨いているというものだったのです。少年の横に靴磨きの箱があり、「その箱を手で隠してみると、この問題の複雑さがよくわかるでしょう」となっています。靴磨きの箱がないと、少年の後頭部がちょうどサラリーマンの股間にあり、ブロージョブと呼ばれる作業に見えるというわけです。法律で仕事をやめろと言って子供の労働を禁止しても、彼のお金で家族を養っていれば、そういう売春行為に走るので、問題は複雑だという表現になっているわけです。
そんな光景は、日本にはないじゃないですか。子供の労働は、少なくとも僕らの世代は見たこともない。だから、その問題に対する切迫感が違って、発信するときのメッセージが全然違ってくるわけです。マシーンをちゃんと使わなければいけないとか、オリエンテーションを理解しなければいけないとか、いろいろなことに翻弄されますが、最終的に確認して帰ったのは、ディレクションがないと広告にならないということです。
アイデアと思って行くと、カンヌはダメです。最初のディレクションがないと、どんなに面白い表現をやっていても、どんなにカッコいいトリックアートをやっていてもダメです。とくに公共物は、世の中に何を発信するかというメッセージの部分がきっちりしていないと評価されません。だから、日本においても、CDの存在が非常に重要だと感じました。最初にこういうメッセージを伝えるべきだというディレクションがないといけないわけです。
通常の広告作業では、企画会議の中でプランナーが考えてきた面白い表現が先行してしまうことも多いわけです。本当は、表現よりも一番最初にどこを取り出してきて言うべきだとか、どっちの角度から見るべきなのか、ということがものすごく重要です。
日本は世代にメッセージを発信しているものが多く、例えば高校生、中学生がターゲットとか、大人でもできるコンピュータとなっています。しかし、カンヌでは、マスもしくはジェネレーション・ターゲット・セグメントを全然考えていなくて、見ている側は集団ではなく1人なのではないかという感じが強くします。「1人の人間に話がある」という感じなのです。

高草木博純氏
(電通)