岡本裕一朗
新型コロナの影響で、世の中は大きな変化・変更を余儀なくされている。アフターコロナの世界では何が起こるのか。広告もNext Normalに向けて何らかの準備が必要な時期なのかもしれない。数々の執筆・寄稿やインタビューを通じて、コロナ下、そしてこれからの社会を模索するテーマについて意欲的に発信している哲学者 岡本裕一朗氏に、リモートインタビューを実施した。
コロナ禍で変わる世界
―岡本先生は『新型コロナ感染症は「近代の終わり」を促すか?』*の中で、これまで感染症が時代を変化させる原因、契機となってきたとお書きになっています。
かつてペストの流行に対する対処から形作られた近代という社会のシステムがコロナで終わると指摘されています。ペスト、そしてコロナといった感染症が社会を変えるというお話についてお聞かせください。
フーコーは「人々を集団化して規律を与えていく」時代を「近代」と呼んでいます。学校とか会社とか工場とか、大勢を一ヶ所に閉じ込めて規律で管理してきた。コロナ以前の日常生活は全部これで成立していました。だから「現代」といっても、これまでずっと近代と同じことが続いていたわけです。
90年代にドゥルーズが「管理社会論」を出した時に、私たち哲学者は「いつフーコー的な社会から変わるだろうね」と話していました。コンピューターネットワークができても遅々として変化が進まない社会を眺めながら。それがコロナで、一気に集団での生活ができなくなった。学校も人を集めて対面授業できなくなり、講義形式のものはリモートで行われるようになりました。
コロナがいつ収束するかわかりませんが、例えば大学に関しては今の形が今後も続くと思います。大勢を集めて講義することはなくなり、教員は半減するでしょう。大きなキャンパスがいらなくなり、土地を売却する動きが出てくると思います。企業にとってもオフィスがいらなくなれば不動産の経費をなくすことができる。ドゥルーズの予告がいつ来るのかと思っていたら、コロナで一気に来たわけです。
―ドゥルーズはそれを何と呼んでいたのでしょう。
新しい形を「コントロール社会」と呼びました。日本ではそれを「管理」と訳したので、フーコーの監視や規律と区別できない人もいましたが、フーコーの監視はアナログなんです。直接目で見て、帳面で付けて、記録として残す。するとそれは、その集団の中で完結するんですよ。例えば学校の情報は企業にはいかない。集団から外れた人には罰則を与えるなどして規律を守らせる。道徳心を植え付けて集団から外れないように説く。
一方でドゥルーズのコントロールは規律を与えません。道徳心なんて無理だから、自由に行動していいのだけれど、行けない場所をシステム的にブロックするという形です。例えばクレジットカードに限度額があるように、システム的に人をコントロールします。
―デジタル時代を予見していたんですね。サブスクの契約者だけがサイトに入れる、とかですね。
そうです。ドゥルーズがそれを発表したとき、日本はまだインターネット環境が普及していなかったので、何を言っているのかいまいちわからなかったんです。彼自身も当時「SFのように聞こえるだろうが」と前置きしていたのですが、その後出てきたインターネット関係の議論は、だいたいドゥルーズの「コントロール社会」に基づいています。例えば有名なレッシグの『code』『コモンズ』などでも同じ線で理解できます。たとえば、以前なら「車に乗るときはシートベルトをしましょう、でないと家族が不幸になりますよ」と広告していたのが、今や「シートベルトをしないとエンジンがかからない」というコードで支配するようになるわけです。
私は今大学ではオンラインで授業していますけど、何時何分に誰が入室して、誰が退室して、何分講義を聞いていたかは全部一覧で出てくるんです。これを見るとゾッとします。学生の側は自由を感じているだろうけど、実は詳しく行動がチェックされている。たとえコロナが収束しても、この動きを元に戻すのは難しいでしょうね。新しいシステムが出てくると、もはや後ろには戻れない。学校だけでなく病院も初診からオンライン診療になっていくだろうし、社会が一度その方向に動き出したら戻るのは難しいことです。
―データやログによって支配、管理される社会ですね。ビジネス界でもコロナ下でデジタル化が急速に進んでいます。先のことになるのでしょうが、このスピードでデジタル化が進んでいくと、どうなるのでしょう?例えば歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは超人類(ホモデウス)の出現を予言していますね。
ハラリ氏の説にはいくつか疑問点があって、それが現実化するまでの時間的なスパンを示していないんですよ。ホモデウスは「遺伝子を組み替えて人間の能力を増強する」という話ですが、それがいつ可能なのかは書かれていない。生物学的に、遺伝子を変えても目立つような変化が起きるには、おそらく数百年以上かかりますから、AIが人間を支配する方が早いと思います。シンギュラリティは2045年には無理でも、2100年までに起こるかと問えば80%の人が「可能性がある」と答えるでしょう。
―ハラリは3月にコロナについても書いていますね**。コロナを抑えるために個人データを提供すれば、国民が徹底的に監視されるリスクを負う可能性があると。岡本先生が書かれているように、日本は中途半端な対処法なのでイメージしにくいのですが、今回のパンデミックへの対処法の中で東アジア型の徹底したデータ管理についてはどうお考えですか?
その点について“世界の哲学者は感染症にどう向き合っているのか?”***という記事を書いたのですが、その中で取り上げたみなに共通しているのは「中国式のデータ管理が成功した」ことを認めていること。経済の回復も中国が一番早かったし、国内で6人感染者が出た時に3日くらいで1000万人に検査をかけて対処した。接触アプリから何から、非常に厳密な監視と管理が行き届いています。ただし、じゃあ中国のように国家に生体情報から行動履歴からすべてを握られてもいいかと問われると、西洋の哲学者はみんな「それはちょっと…」と言う。
欧米も日本も押さえこみはしていません。患者が出たら隔離しましょう、多くなったらロックダウンしましょうという対処法です。中国は先手で感染者が出たら一挙に網をかけて潜在的な患者を見つける。新型コロナの特性上、感染が拡大する前に抑え込むには中国式しかないんです。けれど、情報はすべて国家に委ねなければならないから、「本当にそれを望みますか」というのが多くの知識人の意見です。
ハラリ氏は、台湾やシンガポール、韓国などの、デジタルテクノロジーをうまく使いながら対処したあの方法に可能性を見ていました。もしくは別の形を考えるかですが、具体案はまだ出ていません。
* https://synodos.jp/society/23663
**「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか――今こそグローバルな信頼と団結を」http://web.kawade.co.jp/bungei/3455/
*** “世界の哲学者は感染症にどう向き合つているのか?”『中央公論』2020年12月号
なぜ、いま哲学なのか
―世の中のいろいろな分野で哲学のニーズが高まっています。なぜ、いま哲学なのでしょう。
以前は「哲学者に話を聞いたところで」と思われていましたが(笑)、今は企業や経済団体からも哲学の話を聞きたいとご要望をいただきます。今までと同じ考えの線上で行動するときには、哲学はいらないんですよ。哲学というのは「常識」「大前提」を壊して問い直すことですから。今のように社会的に大きな変化が起きて、「これまでと同じ考え方ではやっていけないのでは」となった時に、必要となる。
通常、国が人々の日常を制限するなんて許されないから、そういう状況は非常事態です。戦争、革命、感染症は非常に例外的な状態です。コロナ下で今私たちはこれまでの近代的なスタイルではやって行けず、大きな変更を余儀なくされています。考え方、社会の在り方、人とのつき合い方も変わっていく。それらを考える時に、「そもそもの意味」を問い直す哲学にニーズがあるのかもしれません。
―『ほんとうの「哲学」の話をしよう』*の中で、哲学は対話を通して合意形成、態度変容を起こすこと、と書かれています。今こそ大切な合意形成が必要な時期ということでしょうか。
合意形成が崩れ始めているから、どういった形で議論をすればいいのか、そこを探り始めているところだと思います。
*「ほんとうの「哲学」の話をしよう‐哲学者と広告マンの対話」岡本裕一朗 ・深谷信介著 2019 中央公論新社
社会貢献のニーズは不平等が生み出している
―広告の話に移ります。最近ではどこのウェビナーを見ても一様に「Next Normal」がタイトルに謳われていますが、ネクストノーマルのクリエイティブはどうあるべきかということに答えは出ていません。コロナ下、コロナ後に企業活動をしていくなかで、広告にできることはなんでしょう。
ひとつの方向として企業が世の中のための広告を打ったり、ドネーションを募ったり、消費者を勇気づけたりという動きがあります。社会貢献を広告で扱うことで企業のブランド価値を上げるというのはひとつの指針になるのでしょうか。
これもハラリ氏が言っていることなのですが、「AI化が進むと役に立たない人間“ユースレスカースト”が出てくる」という課題があります。企業で行う講演などで、「役に立たない人々をどう養っていきますか」と私はわざと意地の悪い言い方で質問するんですよ。驚いたことに、企業の方は真面目な方が多くて、「そういう人々をどう社会に参加させるか、活躍させられるか」を大事に考えていらっしゃる。気候変動にしても、国連の無茶に思える要求に「賛同する」という人が多い。
以前は、「企業は利益を出して会社を大きくする、社員に還元する」だったものが、「どれだけ社会的な活動をして社会に貢献するか」が重要視されるようになった。それが現在の風潮です。我々の世代より、若い世代にその傾向が強いのです。これは社会が平等ではなくなっているからでしょうね。
―「平等じゃない」ですか?
これから人間の格差や不平等はさらに進むでしょう。それを人々がそのまま肯定するのは辛いことです。だから、大きな企業で高い給料をもらっている人たちが、「ただ利益だけで企業活動しているわけではありません」と言う必要性が高まっているということです。社会から認めてもらうために、社会貢献をしていることが必要で、それが宣伝にもなる。人間が不平等化するからこそ、貢献性が積極的な価値になる。
―なるほど。広告表現は心の緩衝材のような役割をもっていて、それが結果的にブランド価値になっていくのですね。
同時に、広告というのは社会のターニングポイントで「予告」「警告」という非常に重要な働きをします。未来を先取りするものが人々に受け入れられますね。社会が大きく変化している時に、「コロナだから巣ごもり」というだけではなく、積極的な行動やポジティブな目標をつくりだせるか、モデルとして打ち出せるかということだと思います。
―20015年P&Gの「Like A Girl」が大きな反響を生み出しました。この頃から、目から鱗が落ちるような気づきのある広告をWoke広告と呼ぶようになりました。コロナ下で人を店頭に呼ぶような広告が出せない現在のような状況で、Woke広告、SDGs広告が広告の方向性のひとつと期待されています。
最近のテレビ(プログラム)は押しつけがましくて、みんな飽き飽きしていますね。広告にしてもどういう風に動機づけしようとしているのか、ストーリーが語られているのかが容易に見えてしまっている。そういうことに対する反発はあると思うんです。そういう風にとられない広告であることは重要なのではないかと思います。
もうひとつは、タレントがモデルとなって向こうから伝えてくるという広告の型があったけれど、ネット時代になって消費者ひとり一人が「自分が表現媒体だ」というのを感覚的に持っている。P&G「Like A Girl」の広告もそうですが、登場するひとり一人が表現媒体なので共感しやすい。その線なのかなと見えます。ありきたりのモデルを押し付けられることに強い拒否感があると思います。