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Vol.9

CHOCOLATE/プランナー、クリエイティブディレクター
市川 晴華

あの人のノート、いったい何が書かれているのだろう? 世を騒がせるクリエイターの思考法をのぞき見したい。サントリー ペプシ「#本田とじゃんけん」、アース製薬 モンダミン「片手を使用中の方に使っていただきました」、オリジナル短編アニメ『パンの赤ちゃん』など、ユニークで人の心をくすぐる企画から目が離せないCHOCOLATEの市川晴華さん(プランナー/クリエイティブディレクター)に本誌編集長の安達が話を聞きました。

生活者として企画をつくる
そのためのメモと思考法

原点は「三角形の先生」「脱サラの父」「糸井重里と母」

―つくっているものがやんちゃでおもしろい。どういう考えで企画しているのかお聞きしたかったんです。子ども時代に何かルーツがあったりしますか?

まったく子ども時代の記憶がないのですが、ひとつだけ覚えているのは小2のときの算数の授業です。町中にあるいろいろな三角形の写真を撮ってこよう、という内容でした。ところが、先生が例として挙げた写真は、三角の角が丸みを帯びた標識だったんです。その角は、多角ではないかと。
私はすごーく真面目で、すごく理屈っぽいんですね。普段は本当におとなしい子だったのですが、「三角形は3つの点が直線で結ばれているものと習った。だからそれは三角形とは言えないのでは」と主張したんです。すると先生は、「確かにそうだ。これは職員会議で共有する」と言ってくれて。
初めて、「こんな別なことを言い出しても聞いてくれる。違う視点をおもしろがってくれる」という経験をした瞬間でした。ここから、人と違う視点を持ってみようと思うようになった気がします。

―素晴らしい先生でしたね!

先生は結論を出さなかったので、考え続けることになったんです。あれは三角形だったのか、多角形だったのか、それとも……と。答えがなくても考えることはおもしろいと、思うきっかけにもなりました。

あとは私が10歳の時、父が家族に内緒で突然脱サラして、蕎麦屋を始めたんです。母はさすがに驚いて怒ってましたけど(笑)、それでもやりたいと思ったらやっていいんだな、自由な生き方をしていいんだなと感じました。今は夫婦で大変ながらも楽しそうにやっています。
それで……思い出してきました、その富山の蕎麦屋に、糸井重里さんが来たんですよ。

―それをよく忘れていましたね(笑)。

いや、けっこうターニングポイントでした。母は美術系の大学を出ていて、広告やデザインまわりに興味のある人だったんです。それで、私が小学校から帰ったら「コピーライターの糸井さんが来たんだよ!」と教えてくれて。
私は「コピーライターってコピー機の人?」みたいな感じだったんですけど、母がその仕事について教えてくれたんですね。それまで何気なく見てきたCM、チラシ、ポスターは、つくるために何か考えている人がいるんだと知りました。そこから一気に、広告やグラフィックデザインの勉強をしたいと思ったんです。糸井さんが来たのは小6の時で、中学生ではすでに広告をつくる人を志していました。

―中学で志すのはかなり早い。大きなきっかけでしたね。

中学の図書館には、大貫卓也さんや原研哉さんの本があって、「いいなあ。おもしろそうだなあ」とどんどん惹かれていきました。視覚的な情報で何かを伝える、興味のなかったものをおもしろそうに見せるということに。
当時ガラケーの待ち受け画像を加工して友だち同士でおそろいにするのが流行っていたのですが、家にあるボロいパソコンで画像を友達の人数分つくったりしていましたね。作業も楽しいし、それで人が喜んでくれるのがまた嬉しい。
高校の時には「美大に行きたい」と思ったのですが、それにはデッサンを2年以上しないといけない。富山にはデッサン教室が少なく、月謝もとても高額で、とても無理でした。美大への進学をあきらめる、これは1つめの挫折でした。

それなら専門学校でデザインを学ぼうと思い、高校ではまったく勉強をせず過ごしていました。そんなとき先生から、「富山大学に芸術文化学部ができた」と聞きまして。その学部は、デッサンか小論文か、どちらかで入ることができたんです。もう死に物狂いで勉強をして、先生から「奇跡」言われる合格を果たしました。デザインを大学で勉強できることが、本当に嬉しかったです。

「デザインする力 < 企画の強さ」を自覚
大学1年から発注側に

―大学時代は何を専攻していました?グラフィック?映像?

グラフィックでした。ただ、デッサンで入った人たちのスキルがあまりにすごくて、デザインスキルで大苦戦しました。これはグラフィックデザイナーになるのは無理だと、第2の挫折です。先生からも「デザイナーか、プランナーか決めたほうがいい」と言われまして。自分としても文字詰めなどにあまり興味が持てなくなっていて、それより大貫卓也さんの「hungry?」のような、企画というもの自体に惹かれた。そこからは、アウトプットのほとんどを友だちや外部の方に相談するようになりました。大学1年で発注を覚えて(笑)、上位の成績に入れる授業も増えたんです。企画に自信が持てるようになりました。

―大学でも、広告業界を志し続けたんですか。

はい。でも就職活動では50社くらい受けてすべて落ちました。広告会社、制作会社、プロダクション、PR会社、イベント会社、販促会社、すべてです。それも一次試験で落ちているので、クリティカルに何か欠落していたんでしょうね。とてもショックでした。これが第3の挫折です。
その後、かなり募集の遅かったCIRCUSでインターン選考まで辿り着いたのですが、そのあとの選考にはやっぱり落ちて。ただ、ここで落とされたらもう実家の蕎麦屋を継ぐしかないという状況で(笑)必死だったので、社長の机に企画書の束を置いて帰ったんです。インターンの間にいろいろな会議を見ていたので、「あの案件、私ならこういう企画にします」とたくさん書きました。大学時代に企画に自信を得たことで、こうすればなんとかなると思ったんでしょうね。すると、社長から電話がかかってきて「筋がいい気がするから、もう一度インターンに来て」と言ってもらえて。その後入社することができました。
業界に片足を入れるまでが本当に大変だったので、今でも熱量を保てているという気がします。

―どの時期にもキーマンが現れて、そこに道ができて、いいルートを進んできていますね。

挫折があったのがよかったと思います。「あっちの道しか残されていない」と縋りついてきて、そのルートの運がよかった。今回インタビューしてくださって整理されました。