ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSについてのお問い合わせ
【CM情報センター】CMの二次利用についてのお問い合わせ

現在、電話・FAXでの受付を停止しております。
詳細は、「CM情報センター」ホームページをご確認ください。

刊行物

TOP > 刊行物 > ACC会報「ACCtion!」 > コンテンツの冒険

Vol.20

フランス人の世界観を日本アニメが補完した

―著書の中で、日本のアニメによって「フランス人の欠落した世界観やアイデンティティの埋め合わせができた」と書かれています。当時のフランスでは、何が欠落していたんですか?

フランスには伝統的に、「フランス精神主義」という哲学の流派が根付いているんです。その「精神」とは「曖昧」、決定されていないものの表れと捉えます。曖昧さと直面できれば、我々の世界の見方は広くなる。これはフランス精神主義を代表する哲学者ベルクソンの説です。
彼のもう一つカギとなる言葉が、「共感」。他人を知る時に、「名前」「年齢」という情報の塊ではなく、ただ新しい存在と認める。どんなレッテル・法則をその人につけようとも、新しいことがいつかは出てくる。彼が主張した時間の純粋持続というのは、そういうことです。人を知るには、共感するしかありません。
すると、人が「いい」「悪い」とはならないんです。その人の位置を説明するだけでは、その人の存在が失われる。逆に曖昧なままにすれば、本当の何かが見つかる。

―ベルクソンは、時間や情動を重要視した人ですね。時間とは何か、なぜ伸び縮みするのかを哲学者として明確に考えた人。観念や理念を説いたドイツ哲学を基盤にする人が多いけれど、フランスの世界観はグレーゾーンの中で積み上げていく時間や経験の大切さを説いていますね。

はい。ベルクソンはユダヤ人でしたが、カトリック、特に聖体拝領に興味を持ちました。中でも聖人は、人間の新しい可能性を開く超人的な存在だと。つまりそれは共感が大事ということです。フランスのカトリック文化には、「相手であるように考えよ」というものがある。相手の立場に立つということです。それは共感そのもので、他人とのかかわりの中で共感の価値を大切にするフランスの伝統があります。だから、いくら愛国民でも「フランス人はこういう人だけ。それしか認めない」とはなりません。

―たとえ相手が移民であっても、アメリカのようにキッパリ区別したりしない。共感する部分を完全には取り除けないというのがフランスの世界観なんですね。では、日本のアニメがフランス人の世界観の埋め合わせをしたというのは、どういうことでしょう。

当時は移民流入が急な時代で共感が崩れていたし、今でも崩れていっています。フランスだけでなく、グローバル化、資本主義の支配によって伝統的な文化の面が薄くなっている。日本もそうですね。
フランスの思想家などは、日本と文化の接点があることをわかっていました。小津安二郎や黒澤明といった日本映画は高く評価され、日本的な共感の伝統は一つのモデルにもなりました。ただそれはエリートや大人の話で、社会全体には共有されていなかった。当時のフランスの子どもたちは日本のアニメで世界観を共有し、感じ方の共有に目覚めたんです。それは、エリートから見るとありえなかった。「なんでアニメなんかで子どもたちがそんなにワクワクするのか」と。
私から見ると全然変なことではないです。だって19世紀フランスで、子どもたちまで読んでいた『パリの秘密』*1という大人気になったシリーズ小説は、アニメの文化にとても近い。貧困街に悪い奴がたくさんいて、若い女性を襲ったりするところに顔を隠した男が現れて「触るな。お前はもう終わりだ」みたいなことを言ってやっつけるんですよ、当時盛んだった、キックボクシングのようなサバットで。実は貴族という設定です。これ、『北斗の拳』じゃないかと思いましたよ。

*1 ユージュヌ・シュー『パリの秘密』: 19世紀中頃のパリを舞台に、泥棒、売春婦、堕胎医、貧困に苦しむ労働者など底辺に生きる人々と、贅沢な生活を営む貴族階級の人々が織りなす波瀾万丈のドラマを描く風俗小説。Vユーゴー『レ・ミゼラブル』のモデルになったともいわれている。

転生もの、異世界ものは何を表しているのか

―最近の日本アニメの大きなジャンルの一つに、転生ものやRPGなど異世界ものがあります。そこで描かれるのはなぜ中世ヨーロッパをモチーフにしているのか。こうした不思議な舞台設定を、フランス人から見てどう感じますか?

伝説や異次元が流行るのは、共通の歴史観が失われた状態の表れだと思います。歴史というのは、過去のこと。「現在」は、永遠に続く日常です。でも、「今はどういう時代?」「何が起こっている?」と今の歴史を意識するのは難しい。だんだん困難になっています。
例えば日本だと、今でもなんか昭和っぽい。日本のイメージが、バブル経済危機の前のままという面が多いと思います。自分の今の位置を確認できていない、というか認めたくない。「日本は日本だよ」と言っても、今の日本と昨日の日本はもう変わっています。変わりながら続く。今を生きる私たちが、今の歴史を考えることはだんだん難しくなっています。

―なるほど、自分たちの歴史に確信が持てないから。“ザ・歴史”といえば中世ヨーロッパは象徴的でわかりやすいですね。

我々は、疑似決定のもとに世界観をつくりがちです。「あの時ああすればよかった」とか、一つ何か違えば異次元が生まれるかのように誤解している。自分の一か所での擬似的な決定によって人生が変わるかのように。

―そうした転生ものやSFアニメには、複数の時間線が出てくるものがありますね。

でもその異次元というのは、歴史に関する自由の完全な互換だと思います。異次元というのは、本当の歴史的な行為の代わりに、疑似決定のイリュージョンとして生まれています。ベルクソンの話に戻るのですが、疑似決定というのは「もしAという時点でBではなくCを選んでいたらもっといい世界になっていたのに」のような。でも人生にそんな決定はありません。決定というのは時点ではなく、ずっと続いていて、新しい可能性を生み出し続けている。時点のA、Bと付けたところで、Bに近づくにつれBはBではなくなっている。

―時間に点などはなく、ずっと動きつつある生成的なものとして捉えるわけですね。

時間はガムのようなものです。日・時・分といった時点は時間を知るためには便利だけど幻想にすぎず、本当はそんなものありません。現在というものは、我々が思うよりも可能性に溢れています。いろいろな可能性がある中で、疑似決定ではAとBという2つしか見ていない。2つに縛られている可能性なんて、もう自由ではありません。自由というのは、可能性の間を存在させるものなのです。異次元というのは、疑似決定しか残らない世界で生まれているんですね。
「現在」の特徴は、「未来の可能性がまだ見えない」ということ。人は可能性は未来にあると考えがちですが、逆です。可能性は過去に影のように存在するもの。「こうやったから可能でした」と後ろにあるものです。

―そのメカニズムの裏返し、焼き直しが転生ものということですか。「もしこうだったら」という仮説をつくってストーリーテリングするには、過去じゃないとおもしろくならないと…。

そうです。転生のおかげで、なくなった政治の可能性を楽しむことができる。過去には明らかな決定があった。
現在なら異次元、過去なら転生。その中にはループがあって、ビデオゲームの影響ですね。転生も、ゲームの創造が深く関連すると思います。ヨーロッパの中世というより、ドラクエなんですよ。そして、あなたは剣士で、あなたは魔法使いで、と明らかな役割がある。みんな明らかな決定があって、それを乗り越えて結末に進むことができる。現在は結末が見当たらないというか。見たくないというか。フランスも日本もそうですが、アメリカ消費社会、資本主義、いろいろな名前をつけられますが、そういった疑似決定、疑似アイデンティティの溢れる世界にいると、文化はだんだん枯れて失われていきます。

想像する自由とばかばかしさが、巨大ロボアニメにはあった

―では、『攻殻機動隊』*2で描かれる未来の世界についてどう思いますか?未来ではもはや身体の実体がなく、電脳の世界。政治的で、本当に起こるかもしれない問題について描いています。

なぜ私が巨大ロボットのアニメにハマって、いまだに研究テーマにしているのかというと、当時の時代性や歴史観をフィクションとして見える形にしていたから。すごくシンプルなフォームで、なのに潜れば潜るほど人間性の何かが湧き出てくるような開かれた作品たちでした。パトレイバーもガンダムも、これから来るべき世界を予測する道具にもなり得た。いいフィクションは、どの時代に見ても響くところがあります。問題は、今はそういった創造が難しいこと。
昔は一本のアニメで働く人の数、お金、技術、シンプルで最初から終わりまで人が創造的に扱うことができました。今のアニメのつくり方は、お金も技術も桁違いに必要になった。昔は人間っぽい形のロボットをアニメにすればよかった。ラフで現実的ではなくても想像力が働いたけれど、どんどんリアルになって、現実と創造の関係がより複雑になった。3Dアニメーションだから、人間がこのロボットはどう動かせばいいのか、と想像する余地はありません。

―自由度が減るということでしょうか。

自由度が減るし、ばかばかしさが減る。昔のロボットアニメはデフォルメと現実の間を模索していました。その間に、アニメーションの創造の能力があったのではないでしょうか。『攻殻機動隊』や精緻な3Dだとそういう可能性がなくなる。3Dはアニメーションの警察のようですね。アナログの時代は「その線でやってみよう」とつくり進めてすごい失敗をしたり、「なにこれ」というようなシュールな絵になったり。リアルではないのだけど、その中に意外と「それだ!」と共感できるものがあったものです。精緻に3Dを使うとその可能性がなくなります。

―たしかにSFに限らず最近のヒット作はどれもお金をかけていて、技術も動画のクオリティも格段に上がっています。そうなると自由度が少なくなって、想像を喚起しづらくなっているのでしょうか?

私から見るとそうです。でも「昔はよかったなー」というクソジジイなだけかもしれませんね(笑)。つくり方の状況が変わって、疑似決定によってつくられる創造が盛んなのだと思います。問題は、つくられるものがすべてその束縛から出られないこと。AかBかというような。

*2 士郎正宗『攻殻機動隊』: 21世紀、第3次核大戦と第4次非核大戦を経て、科学技術が飛躍的に高度化、電脳化した日本を主な舞台にしたSFクライムアクション。1989年から公開された原作コミックをベースに1995年劇場版アニメ、2002年以降数度テレビシリーズが制作された(監督 押井守、神山健司、黄瀬和哉等)。劇場版第一作のビデオ週間売上げで全米1位を記録(ビルボード誌)など、世界的に受け入れられた日本アニメ文化の金字塔。2017年ハリウッドで『Ghost in the Shell』(監督 ルパート・サンダース)として実写映画化。

創造は、人と現在いまの結びつきを強くする

―あまりに精緻で複雑なつくり方でアニメをつくると、あらかじめ創造のためのフレームが決まってしまうのでしょうか?

そう、それは病だと思います。A、B、C…、点にあふれる人生ですね。点はたくさんあるけど、“その間”は我々の手から離れてしまってもう見当たらない。我々の人生は虹(生成的持続や偶然性)ではなく、打たれた釘(擬似決定や固定された時点)しか存在しない。釘がたくさん増えたから「自由でしょう」といっても、それは虹とはちょっと違うんです。
現在は疑似決定でつくられてしまって、生成的な「現在(いま)」の太さ、厚さが失われている。歴史の中に生きず、表層しか経験できない。現在(いま)の濃さが影響できなくなっている。「次はどの学校?」「どの会社?」「給料どれくらい?」と疑似決定しか残らない。「あなたの夢は?」と聞かれたら職業を答える、というような。

―これまでの人生の中で、特に好きなCMや広告はありますか?

80年代フランスで、歌手でありながら有名なCMをつくったRichard Gotainerという人がいて、私の世代にすごく影響を与えました。特に当時の子供に強い印象を与えたのが、BANGAというジュースのCM*3でした。私みたいな子供をワクワクさせたのは、日常生活のふつうの家の中でもインディ・ジョーンズみたいな冒険が潜められているという世界観でした。それは、同じ時代に日本のアニメにハマった子どもたちにとって、何か似たようなアングルから私たちの想像を揺さぶった作品だったと思います。

―若いクリエイターに向けてメッセージをお願いします。

CMも想像を扱う作品なので、人々の想像を甘く見ないようにつくって欲しいです。クリエイターは創造する者として、その「想像」に対して責任があると言いたいです。みんなの宝物でもあるその「想像」を道具として扱うのではなく、「想像」を生かす、成長させる責任もあると思います。
そして、現在(いま)をもっと厚く見ましょう。現在の中には、我々しか存在しない。我々しか共感できない。
「人」と、「その人の生きる現在(いま)」の結びつきを強くするようなコミュニケーションに目を向けてほしいです。その広告を見る人が、自分の現在に新しい可能性、新しい色づけをできるようなもの。ただ「買わせなきゃ」「こうじゃないとダメと思わせなきゃ」だけではなく、そこがないと。そのためなら手段を選ばずやってほしい。
疑似決定によってつくられた疑似未来より、現在(いま)を活かそう。

―ベルクソンに戻ると、「常に現在(いま)を生成し続けよう」ということですね。
今日はありがとうございました。

*3 Pub BANGA:80年代フランスの伝説的CM。
https://www.youtube.com/watch?v=onErXD0miTk

インタビュアー:丸山 顕
執筆協力:矢島 史
photo:村上 拓也

トリスタン・ブルネ
白百合女子大学/准教授
1976年フランス生まれ。現在は白百合女子大学准教授。日本史学研究者・翻訳家、オタク。
日本のアニメ、マンガなどに造詣が深く、フランス語版『北斗の拳』などマンガの翻訳に携わる。
2004年に初来日、以後数回の留学経験を経て、現在はフランス語、フランス思想の講師を務める。