上田: そうですね。僕は22~3年、携わったと思います。安藤隆さんや葛西さんはさらに4年くらいやられましたよね。2011年の東日本大震災後に広告全体が萎縮して、長らく中国で撮影してきたシリーズはそこで終了ということになりました。
実はあの地震が発生したとき、僕ら中国にいたんです。当日は上海に飛んでいて、向こうに着いたら「日本が大変なことになってる」と。でも、戻ることもできないので撮影は進めようということで、海南島のほうで撮影をしていたんですけど。
いっぱい思い出がありますね。移動中にロケバスに乗るとき、だいたい席順が決まっていて、安藤さんが一番前に座って、葛西さんがその後ろ、次に僕が座るんです。で、道中ずっと色んな話をしているのですが、だいたい嫁さんの話になる(笑)。だれも嫁さんに頭が上がらなくて、いつも大笑いしながら走ってるうちに現場に着くわけです。
箭内: 目に浮かびます、その様子(笑)。烏龍茶の広告を集めた作品集が出るとうかがいました。
上田: ええ、この秋頃に出る予定でしたが、多少遅れ気味です。葛西さんがデザインされてるんですけど、広告のビジュアルを元に、僕が中国ロケの合間に撮っていたスナップを中心にして編集していく、そんな体裁の写真集ですね。確か500ページくらいになるんじゃなかったかな。
箭内: すごいボリュームですね。映画の話も聞かせてください。すごいなと思いながら拝見しましたけど、この『椿の庭』は上田さんの中でどういう思いがあってつくられたものなのか。だれかに頼まれて断りきれなくてやり始めたというものじゃないですよね。
上田: そうですね。僕は映画は好きでしたけど、前から撮りたかったわけではなくて、実はあることがきっかけになって始まったものなんです。
箭内: あることというのは?
上田: 以前、元麻布に古い一軒家を借りて住んでた頃に、よく周辺を散歩していて、すごく好きな家があったんです。こんもりと茂った縁の奥にほんの少し屋根が見えてるぐらいの佇まいのいい家で、そこを歩くたび「どんな人が住んでるんだろう?」なんて想像したり。
ところが、ある日その家がなくなっていた。すっかり更地になっていて。すごくショックでその日は散歩もやめて、家に引き返したんですよ。それで、なんだか不思議な気分になって、戻ってから自分の気持ちをざっと書き始めたんです。思いのようなものや、まったく知りもしないそこに住んでいる人のことを。そこにはおばあさんと孫がいて二人で暮らしていたーーなんて想像を膨らませながら。で、そのときに「これは映画じゃない?」って思ったんです。だったら文章じゃなくて映像で撮りたいなと。
箭内: じゃあ本当に初期衝動というか、上田さんの中に湧き起こったことの出口が映画だったんですね。でも、それを形にしていくプロセスの中でいろんなことがあったのでは? 「構想15年」って書いてありましたけど。
上田: 映画にするには脚本が必要なんですけど、そもそも僕は脚本ってものを読んだこともないですから。完全に自己流だったと思います。それを書き終えてから、ある親しいプロデューサーの方に見せたんです。そしたら「これは映画にしたほうがいいですよ」っていう話になった。それがいまから17~8年前だと思います。
そこからリーマンショックや震災などが起こり、映画を撮れるような雰囲気ではなくなって、そのまま企画が眠ってたんです。それでも、ことあるごとにそれを引っ張り出しては、やっぱりこれは形にしたいと。で、ギークの小佐野さんと5~6年前ですかね? 実際に動き始めたのは。そこから撮影に1年かけて、編集して公開しようと思った矢先にコロナで1年延期になり、去年やっと上映できました。
箭内: いまコロナやリーマンショックの話も出てましたけど、上田さんは今という時代をどうご覧になってますか。ちょっと漠然とした質問ですけど、日々いろんなことが起きる世界を上田さんがファインダーからも含めてどう覗いてらっしゃるのかな? というのは気になるところではあって。
上田: 激変してますよね。いままでの時間の流れとは違う何かを感じていて、それをどう言い表せばいいのかはよくわからないんですけど、変化に対する僕自身の向き合い方としては、不思議な勘とでも言うんですかね? 理屈のない直感で、ある種“かいくぐって”きている感覚はあるんです。
例えば映画にしても、あとから思うと「なんであのタイミングだったんだろう?」って思うわけですけど、そのことが確実に僕のいまに結びついている。つまり、言葉で説明できない直感が自分を底のほうから揺り動かしていて、それにしたがって行動するのは意外と心地いいんですよね。もちろん、苦しむこともありますが、「これでいいんじゃないの?」なんて確信のようなものもあって。