一倉: それは自分の中では全部、地続きですね。さっき大学の卒論の話が出ましたけど、それは「言霊」について書いたものなんです。だからコピーライターの仕事をしているのか? と言われれば、そんなわけはないんですけど。言葉の面白さがメシより好きだったっていうのはありますよね。言霊って漢字で「霊」って書くから、マジカルなもののように思うけど、そうじゃないんです。「たま」というのはもともと「生命力」の意味でした。いまでもそれはいっぱいあるわけですよ。歌もそうだし、ロックだってそう。言葉の生き生きとした生命力を使うという意味では、広告もその中のひとつですよね。
箭内: コピーライターという呼び方ではあるけど、広告の中で言葉の生命力を取り扱う人っていうことですね。でも、その言葉の生命力のあり方って、万葉の時代から続いてることだから、別に時代云々ではないと思うんですけど、とはいえ、変わって行く部分もありますよね。いまの時代において、言葉の力とか難しさについて、一倉さんはどういうふうに見てますか。
一倉: そうですね。言葉はもともと、音だったので。 それが文字になったのは、例えば日本においては、たかだか千数百年前、それこそ万葉仮名の時代です。中国伝来の漢字を使って、はじめて音を書き記すことができたわけだから。いま、言葉と言えば、文字を思い浮かべたりするけど、本来は音です。詩というのは歌だったはずです。で、それがいま黙読の時代になっちゃってるじゃない? コミュニケーションのほとんどが。昔の会社だったら、あっちこっちで電話かけてて、だれかが怒られてるなんてことまでわかったりして。
箭内: メールなんてなかったですからね。
一倉: うん、どこのオフィスに行ってもみんなシーンとしながら仕事していて。言葉が音を、生命力を失っちゃったなって気がするんですよね。
箭内: 確かに。だから額面通りに言葉を捉えたり、自分の音で言葉を捉えたり。それ、良し悪しだと思うんですけど、 そういうのはありますね。
一倉: グラフィックの広告でも本来、言葉には音があるわけだから。改めて振り返ると、僕のコピーでも、この道の達人「眞木さんに準じる」くらい、言葉遊びとか、掛け詞的な表現をやってきた。歌詞では韻を踏むし。それも「音」だから。音だから生き生きと、意味も重なって面白いんです。
箭内: 「愛に雪、恋を白。」(JR SKISKI)もそうですね。今年、GLAYの30周年で、僕の60年記念企画(風とロック さいしょでさいごのスーパーアリーナ)にも出演してくれたんですけど、『Winter,again』というヒットを生んだすごい広告だなと改めて思いました。
一倉: あれは資生堂の「君の瞳は10000ボルト」だったり、 眞木さんの「高気圧ガール」(ANA)みたいに、コピーのまま歌詞にならないかな? くらいの気持ちだったんです。そしたら、そのままではないですけど、TAKUROさんが「あい」も「ゆき」も「こい」もCMのサイズの中に絶妙に散りばめてくれてね。素晴らしいコラボになったと感謝しています。
あと、アートディレクターの小林(良弘)くんには、このコピーはダジャレって言われやすいから、ちっちゃく入れるんじゃなく、堂々と入れてほしいって言ったら、ポスターからはみ出すほどの大きさでデザインしてくれました。タレントじゃなくて、文字のほうが盗まれたのははじめてだって。JRのひとが言ってました。
箭内: 吉川ひなのさんのアップとコピーの2連貼りでしたもんね。言葉と音楽とデザイン。そこの相乗効果があるから、キャンペーンが立体的になるんだと思います。それにしても、「あなたと、コンビに、」(ファミリーマート)であったり「職業選択の自由」(サリダ)であったり、一倉さんの仕事って発見だったり発明があってすごいと思うんですけど、なんなんですかね、このドヤ顔じゃない感じ。これが最大のテクニックのひとつなんじゃないかと。
一倉: それは僕がすごいというより、言葉がすごいんでしょ? 「雪」と「行き」を掛けるのは万葉集にもあるんです。それを僕がコピーでもやって、GLAYも歌にしたってことですから。僕らがやってみせたというよりも、ずっと昔から日本の言葉がやってきたことでもあって。
箭内: でも、楽しんでらっしゃいますよね?
一倉: それは楽しいから(笑)。
箭内: それは言葉にとっても幸せだし、なんかこう世界を平和にさせる感じがある。さっきの話じゃないですけど、音としての言葉の裏にある豊かさを黙読が奪ったのかもしれないですね。例えば、真心ブラザーズに『人間はもう終わりだ!』っていう曲があるんですけど、そんなのけしからんっていう人が結構いるわけですよ。本人たちは逆説的なメッセージをこめて、だからこそ人間は頑張んなきゃって歌ってるはずなのに。
一倉: ネットに上がる言説は、極端になりがちですよね。それも言葉の音と関係があって、あそこには音がないわけです。話し言葉だったら同じ言葉でも色んな意味があって、「馬鹿だな」って言っても、そこに愛情みたいなニュアンスまで表現できたりするものだけど、ネット上に「馬鹿」と書き込んだら「馬鹿とはなんだっ!」ってことになりがちですよね。そうやって言葉からニュアンスがどんどん抜け落ちちゃって、コミュニケーションとして痩せてしまってる気がします。
箭内: そこで一倉さんの言葉たちが踏ん張ってるというとあれですけど、ニュアンスを込め続けてきたと思うんです。さっきコピーライターは宿命とおっしゃってましたし、ずっとやってこられたと思うんですけど、コピーを書くことに飽きたりはしないんですか。