刊行物

TOP > 刊行物 > ACC会報「ACCtion!」 > あの人が今


~クリエイターわらしべ物語~

児玉 裕一

あの人「は」今って言ったら消えた芸能人の行方を探すアレですが、あの人が「今」と言ったらその逆です。わらを握りしめていた昔の姿からは想像もつかぬほど、数多の受賞を経て今やトップランナーに。そんなわらしべ長者的にビッグになっていったクリエイターをご紹介する第7弾。
今回は、「UNIQLOCK」でカンヌ、クリオ、ワンショーのグランプリを総なめにし、昨年のACC賞でもグランプリやゴールドなど、多数受賞された世界的映像ディレクター、児玉裕一さんに本誌編集長が突撃インタビュー!

科学の道から映像の世界へ

―以前、海外での撮影でご一緒したことがありますね。児玉さんその時、「寝てないからもう時差がない」とおっしゃっていたんですよ。UNIQLOCKでメチャクチャ賞を獲った後で、お忙しかったのでしょうね。

 そんなこと言ってましたっけ(笑)。あの時がピークですよ。今は子どもを保育園に送ったりがありますから、当時ほど詰めてはいません。

―当時の“そんなこと”に至るまでをお聞きしたいのですが、意外なことに大学時代は科学者を目指していたとか?

 子どもの頃から地元の科学館(新潟県立自然科学館)に通ったり、科学雑誌に夢中になったりで、自分は科学者になると思っていたんです。大学(仙台)では触媒の研究をしましたが、途中で科学のデザイン的なところが好きだなと気づいて。思い返せば科学館でも、イームズの映像「Powers of Ten」のデザインなどにすごく惹かれていたんですよね。NASAのロゴとかボイジャーのゴールデンレコードとか、どれだけでも眺めていられます。そこから、大学の生協で『広告批評』や『デザインの現場』を読むようになって、マッキントッシュも買って映像をつくるようになりました。将来その道に進むなら、東京で広告会社に入ればいいんだな、となんとなく目星をつけまして。

―在学中から映像をつくっていたんですね。マックがあれば何でもできると。

 大学卒業後は片っ端から広告会社を受けて、電通東日本に入社しました。でも入ったのは制作部ではなく、新聞や雑誌の媒体部だったんですよ。いずれ制作に行けるかと思ったのだけど、「次は営業部だね」と言われて、じゃあ辞めますと。周りはいい人ばかりで本当に居心地がよかったのですが、だからこそ早く辞めないとずるずるいってしまいそうで。社内イベントがあると勝手に8ミリを回していたので、辞める時にそれをビデオクリップ風にしてお渡ししました。たった1年しかいなかったんですけどね、「これがやりたいので辞めます」と。

―制作に行けなくても、映像はつくっていたわけですね。そこが違うんだよなあ。

会社で得たこと、フリーでできたこと

 制作には行けなくても、その1年で社会人のマナーや、広告のお金の流れを実体験としてわかることができたのが大きかったです。辞めた後も人脈は残りましたし、このご縁が仕事になったケースもあります。会社に入るって本当にいいものですよね。
 退職後は仙台に戻り、フリーのディレクターをしている先輩のところに間借りしました。仕事のおこぼれをいただいたり、テレビ番組やCM制作の仕事に関わることができました。
 なかでも大きかったのが、ミュージックビデオ(MV)を流す番組で、合間の10秒くらいのコーナーを担当したことでした。毎週5本ずつ納品するのですが、毎回違うのを流そうと思ってあれこれやりまして。友人をガムテープで壁に貼り付けるだけの映像だったり、しょうもないやつをたくさん。今で言うユーチューバーのような感じですよね。スタジオを押さえて、撮って、編集して、完パケまで全部自分でやるような仕事で、ひとり制作会社という感じでした。それが一応、地上波テレビで流れるという。

―この連載で、制作部を未経験でひとりでディレクターを始めた人なんて初めてですよ!
そこから、再度東京に来た経緯は。

 仙台に行って2年経った頃、友人がスペースシャワーTVで番組をつくらないかと誘ってくれまして。ずっとやりたかったMVを撮れる機会があるかもしれないと、再び上京しました。そこで受け持ったのは2時間番組だったので、10秒とは違いいろいろなことができたんですね。そのうち、僕のリールを見た音楽ディレクターが、スネオヘアーというアーティストの立ち上げを一緒にやらないかと声をかけてくれました。MVとジャケットをできないかと問われて、グラフィックは本で学んだ程度なのに「やります」と。