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~クリエイターわらしべ物語~

青木 一真

あの人「は」今って言ったら消えた芸能人の行方を探すアレですが、あの人「が」今と言ったらその逆です。わらを握りしめて泥の中をもがいていたのは過去の姿。数多の受賞を経て、今や世の中を騒がせる話題のクリエイターに! そんなわらしべ長者的に階段をかけのぼりビッグになったクリエイターをご紹介するこの連載。第8弾は、「Donail(ドネイル)」でカンヌやアドフェストなどの海外賞を受賞、「着帽手当」や「20年分のありがとう新聞」でACC賞やエフィー賞を獲ったクリエイティブ・ディレクターの青木一真さんに本誌編集長が突撃インタビュー!

営業職からクリエイティブへ。泥沼でもがいた3年半。

―同じ会社(ADK)だから青木くんはよく知ってるんです。
最初はクリエイティブじゃなかったんですよね。

 もともとクリエイティブなんて自分にできる仕事だと全く思ってなくて、興味すらなかったんです。当初は特に希望もなく、営業部に配属されました。クリエイティブに興味を持つようになったのは、担当していたKDDIのお仕事で博報堂のクリエイターとご一緒してから。当時AHプロジェクトというADKと博報堂の連合アカウントチームに所属していたのですが、入社して3年目の時、博報堂の花形クリエイターを初めて目の当たりに。「なんておもしろい世界なんだ!」と衝撃を受けまして。嫉妬を超えた尊敬というか。一方で、おこがましいことに「自分にもできるんじゃないか」などと考えるように。営業なのに、企画やコピーを考えたりするようになりました。
 とはいえ、昼は激務で夜は合コン・飲み会三昧という、僕はとにかく典型的なチャラい営業でしたので、ここからクリエイティブをめざそうという考えは全く起こらず。ところがある日、チャラい仲間だったはずの同期の平田君が突然、「宣伝会議のコピーライター養成講座に行く」と言い出したんです。「えっ、こいつが? それなら俺も(笑)」と、つられて自分も通うことにしました。結果、社内のクリエイティブ試験に合格はできたのですが、「関西になら席がある」という条件付き。まぁ、補欠合格みたいなもんですよね。結婚4ヶ月目にして、会社で当時最年少の単身赴任者として関西支社へ赴任することになりました。

―デビューは大阪だったんですね。

 今思えば、大阪時代の経験はいい意味で今の自分に影響を与えてくれたと感謝しています。でも、過酷でした(笑)。当時、やりたい仕事に場所なんて関係ない。と強がっていたのですが、職種も住む街も変わって、知り合いもいないという、もはや転職状態で完全なアウェイ。いざ入ってみると、当然ながら東京とは色がまったく違う。体育会系を超えた軍隊というか、「まずは飲み」「明日やれることを今やるな、スナックに行くぞ!」という凄まじい昭和ワールドでした。最初の上司は「関西を盛り上げるのは君のような若者だ、ついてきてくれ!」と熱く語っていたのに、3カ月後には早期退職されてしまうし…。日々もう必死で。関西クリエイティブの一番のビッグイベントは花見で、1週間前から席を取り、ビールサーバーを予約し、伝統の買い物リストで先輩方の好みのつまみを買い出ししておくんです。そして上司の好きな曲を集めたCDをつくるというのが習わしでした。そして朝6時から夕方まで飲んで、脱いで、歌って踊る、お祭りのような騒ぎでした。
 そんな中でも、人数が少ない部署のため打席に立てるチャンスも多く、クリエイターとしては成長できる場所だったと思います。CMプランナーの先輩が多かったこともあり、企画の仕方やコンテの書き方から撮影でのたちまわり方まで、現場でしっかり教わったことが、今の血肉となっています。ただ、コピーを教わる先輩が少なく、自分でコピー年鑑を写経したり、あとは地方のチラシのコピーをひたすら。賞を獲れるような派手な仕事があるわけではなく、地味な作業をこなすばかりで。東京の同世代を横目に、今後自分はどうなっていくのかと、泥沼でもひたすらもがき、焦り続けていました。

心の師匠との出会い

 いつかは東京で世間を賑わせるような大きい仕事をしてみたい、でもいつ戻れるのかわからない。そんな鬱屈した気持ちの時に偶然出会ったのが、コピーライターの児島令子さんでした。児島さんは若くしてフリーランスになった方なので、「(いい仕事ができないのを)環境や上司のせいにしている時点でダメ」と。本当にその通りだと思いますし、自ら働きかけ動くことで、チャンスを呼び込むって考え方は今でも大切にしています。
 児島さんからは「TCC賞の応募も意識してみては?」とアドバイスをもらって、自信があるときは作品を見てもらっていました。いつも完膚なきまでに、「こんな川柳みたいなコピー書いてる時点で失格」とダメ出しされて(笑)。でもそのおかげで、コピーライターとしての心構えはもちろん、小さくまとまらず高い視点のものさしを持つことができた。児島さんからの厳しくも愛のある言葉、そのすべてが今の自分の糧になっています。

―いい師匠に出会えましたね。

 今でも本当に感謝しています。児島さんとの出会いがあったから、諦めず、腐らず続けることができた。コピーを見る上で、上辺にごまかされず本質を見極める方。もし児島さんと出会っていなければ、クリエイティブからまた営業に戻っていたかもしれません。

東京でも焦りのち花咲かす

―東京にはどのタイミングで戻ってきたんですか。青木さんが今の姿となった転機は?

 大阪にいるうちに東日本大震災もありましたし、妻には相当な苦労をかけてしまいました。さすがにこのままだと離婚になると、会社にお願いして3年半で戻してもらいました。関西時代は、やりがいもありましたが、正直、悔しいこと、つらいことも多かった。けれど、人生のうちにそんな“戻りたくない時代”がひとつはないと、成長できないのではとも思います。

WWF Japan「Donail」

 東京に帰って僕が言われたのは、「どんな仕事でもイニシアチブを取らないと、ずっと人の手伝いばかりの渡り鳥だぞ」と。自分の中でも、このまま埋もれていくだけなのではないかと焦りが募っていた時、同じルームだったADの増田総成君にWWFジャパンの仕事に誘ってもらって、「Donail」というキャンペーンを手掛けました。絶滅危機種の野生動物をネイルアートのモチーフとしてデザインし、サロンで注文されると何パーセントかが寄付されるという仕組みです。ネイルサロンの各社や日本ネイル協会とのやりとりもし、テレビ番組やSNSで話題になり、アドフェストのメディア部門やカンヌのPR部門で入賞することができました。自力でやり遂げた仕事なので、これでようやくコピーで培った技術を基点に、統合的なキャンペーンもできると少し自信を持つことができた感じです。