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~クリエイターわらしべ物語~

柳沢 翔

あの人「は」今って言ったら消えた芸能人の行方を探すアレですが、あの人「が」今と言ったらその逆です。わらを握りしめ歯を食いしばっていた昔の姿からは想像もつかぬほど、ACC賞など数多の受賞を経て今やトップランナーに。そんなわらしべ長者的にビッグになっていったクリエイターをご紹介する第6弾。今回はまさに今年、フィルム部門BカテゴリーでのACCグランプリなど、多数の受賞をあげた柳沢翔監督に本誌編集長が突撃インタビュー!

年収20万円の養成時代

―ACCでグランプリとクラフト賞その他諸々、受賞おめでとうございます!でも散々海外で賞をもらっているから、「そうですか」って感じ?

 いやいや嬉しいですよ!海外の賞は日本のスタッフがあまり知らないじゃないですか。国内でこんなに大きい賞をいただいたのは初めてなので、周りもみんな喜んでくれて。海外の賞よりACCの賞の方が日本では仕事につながりますし、ありがたいです。

―そんな柳沢さんでも昔は苦労されていたんですか。

 それはもう、自虐ネタで生きてきた、というくらい苦労がありました。僕は多摩美術大学で油絵をやっていて、その後、東北新社の制作部に入ったのですが、本当にできなくでダメダメで、1年半で辞めました。それまで絵しかやってきていないのに、制作ってあらゆることの管理が必要ですから、全然できないんですよ。制作やってたらそのうち演出できるのかなと思ってたんですけど、当時の東北新社ではそのシステムを採用していませんでした。そういうわけで今所属しているTHE DIRECTORS GUILDが新人養成のために始めたTHE DIRECTORS FARMの一期生に入ったんです。4つの試験を通って受かったんですけど、そのあとしばらくは苦難の道のりが…。

―さあ、おもしろくなってきたぞ。

 まず、仕事がなければ収入は1円もないんですね。もちろん、ただの24歳でしかない僕が仕事なんて取れるはずないから、初年度の年収が20万円。超貧乏で水道、ガス、電気全部止まりましたからね。幸運にも下北沢に親戚の物件があったので、そこに住み着いて散々延滞してめちゃくちゃ怒られていました。
 一期生なので、あれこれ実験的にやらされまして。同期のオサベ君は髪の毛をおさげにさせられましたし、アサヒさんは鳥居みゆきキャラということで眼帯をして、包帯を巻いた人形を常に持たされてました。僕は、ボクシングのヘッドギア装着を義務付けられまして。まあ、師匠たちなりの売り出し方&かわいがりみたいなもんですかね。でも、怖がられるだけで、半年くらい何にもならなかったんですけど(笑)。企画についても全然わからないし。ほかの人たちはプロデューサーと企画を持って来てるのに、僕らは変なおさげと人形とヘッドギアで、全然相手にされませんでした。

芸人たれ

―ある意味、演出されてたんですかね(笑)。

 そんな日々の中でも、半年くらい経って気が付きました。打ち合わせでおもしろい企画を出してもその後なかなか続かない。だけど、おもしろい人だなと思われて、人間的に好かれると頻繁に呼ばれるんだなと。だからもう、くだらないことばかりを延々言って芸人のようにがんばりました。だいたい、僕はもともと文科系の人間なのに、入った世界があまりにも体育会系で…。夜中3時にバーに呼び出されて、入った瞬間に「ハイ一発芸!」とウクレレを渡されたりして。しょうがないから「フライパン」とか言ったらすごい怒られて。でも、そんなことをしているうちに名前を知ってもらえて、仕事に呼ばれるようになったんですよね。

―そこからどう這い上がったんですか?

 メイキングで呼ばれるようになって、ヴィダルサスーンのCMで美術のグラフィティ描ける?と聞かれて描いたり、カメラ回したり。そんなことしているうちに生活が安定してきまして。企画で呼ばれても本当にお金にならなくて「このままじゃ死ぬな…」という感じだったのですが、メイキングなら食べていける。メイキングで人との関係が広がって、自主制作のものも撮って、その後、曽我(将)さんに引き合わせてもらって、2009年にアドフェストでグランプリをもらえた白泉社さんのテレビCM「LaLa report篇」をやったんです。すごく予算のない案件だったから、若い人でつくることになって呼ばれたんですよね。これが実質初めて撮ったテレビCMで、ひとえに曽我さんの力なんです。

―それが10年くらい前ですね。そこからは成功への道を?

 いや、その後も何も仕事が来なくて。その頃は自主的にミュージックビデオをつくっていました。その時に来た話が、ギャラと制作費、ジャケットと歌詞カード合わせて15万円で。儲けにはなりませんが、どうやってもいいという条件があったので、実家の工房でひたすらコマ撮りしたりして。やっているうちに個性的な方々とのつながりができて、大塚愛さんのミュージックビデオに抜擢していただいて。それをGT INC.の田中徹さんが見て、コカ・コーラのジョージアに呼んでくれたんですね。これまで予算50万円とかの世界にいたので、1千万を超えるなんて天文学的数字なんですよ。「いいんですか!!」と。ちょっと不安だからスタッフは徹さんのところの方々にお願いして。すごくいい方たちで、これで“しっかりCMをやっている人”と思ってもらえるようになったと思います。

―つかみとった転機ですね。柳沢さんは企画から入るんですか?

 僕は企画がほとんどできないので、迷惑をかけないようになるべく関わりません。うちのディレクターにはプランナーとして才能があって出てくる人と、僕のように企画はせずミュージックビデオとかをひたすらいっぱいつくってきた人と2タイプいます。僕はプレステチームに長くいたんですけど、僕がいくら企画を出したって本当に通らなかったですよ。その後も、徹さんにしばらく付いていて、コンタクトレンズのCMで初めてタレントものをやらせてもらいました。そのうち徹さんが車のCMを持ってきてくれて、若いディレクターとしては一通り出そろって、知らない人からも声がかかるようになった感じです。

―『星ガ丘ワンダーランド』で映画監督デビューもされていますよね。

 いやあ、大変でした。映画未経験なのにいい映画で抜擢されたから。1年はCMをやらずに映画に専念するという契約だったので、それで1年費やしてCMに戻ってこようと思っていたら、もう席がなくなっているし。CMのサイクルって早いじゃないですか。映画をやっていた、たった1年で席なんてなくなっちゃうんですから。しかもCMに帰ってきてもなかなか感覚が戻らなくて。CMと映画では使う筋肉が全然違うんですよね。でも、それで時間が取れたので、資生堂さんのウェブムービーの仕事が受けられたんです。

―ACC、カンヌ、ONE SHOW 、Spikes Asiaなど総なめにした「High School Girl? メーク女子高生のヒミツ」ですね。

 前から資生堂さんのCMにはシーブリーズなどで携わっていたのですが、社風的にとてもディレクターを信頼しておおらかにやらせてくれるんです。この頃資生堂さんには、「若者への認知拡大」という課題がありました。そこでひと月に1本ずつ、10本ウェブムービーをリリースしていこうという企画が出たんです。1本目を僕が担当することになったんですけど、その頃流行っていた女装男子でいったらどうだろうと。資生堂さんがヒアリングしたら「自分の学校のイケメンが女装してたら絶対見る!」という声がありまして、あの作品の方向にガーッと舵が切れたんです。